2009-03-26 Thu 23:32
2009-03-22 Sun 14:38
2009-03-22 Sun 14:17
管理人コメント:
堂本印象が著作権存続orz ということで、ここで彼のポスターをまとめてご紹介。
画像なし解説の連荘で恐縮ですが。
先ほどの和服美女のポスターと同様に、画面左上に「JAPAN」。
最下部には小さめに、
Board of Tourist Industry
Japanese Government Railways
とあるだけ。国鉄が制作した、国外向け観光誘致のためのポスターでしょうね。
画の方は、これも平安神宮的な朱塗りの神社の庭に、こんどは鹿が2匹。
左右には藤が見事に咲き誇っている・・・という構図です。
これも画像の公開までは16年ほど、待っててくださいね(笑)。
または美術館のほうで実物を見られるといいのですが…。
~~~~
追記:ひょっとしてと思って調べたところ、どうやら春日大社がモデルの模様。
やっぱり鹿といえば奈良ですか。
堂本印象が著作権存続orz ということで、ここで彼のポスターをまとめてご紹介。
画像なし解説の連荘で恐縮ですが。
先ほどの和服美女のポスターと同様に、画面左上に「JAPAN」。
最下部には小さめに、
Board of Tourist Industry
Japanese Government Railways
とあるだけ。国鉄が制作した、国外向け観光誘致のためのポスターでしょうね。
画の方は、これも平安神宮的な朱塗りの神社の庭に、こんどは鹿が2匹。
左右には藤が見事に咲き誇っている・・・という構図です。
これも画像の公開までは16年ほど、待っててくださいね(笑)。
または美術館のほうで実物を見られるといいのですが…。
~~~~
追記:ひょっとしてと思って調べたところ、どうやら春日大社がモデルの模様。
やっぱり鹿といえば奈良ですか。
2009-03-21 Sat 23:23
管理人コメント:
Japan Travel Bureau(日本交通公社)による観光ポスター。Japan Tourist Bureau(日本旅行協会/東亜旅行社/東亜交通公社)が改称したのは1945年なので、このポスターは戦後の作。
このブログでメインに扱っている期間からはやや外れますが。
作者は堂本印象。
あれ? 生没年が(1891-1975)だ…。
著作権存続orz…
ということで画像が出せなくなりました。
あと16年ほど待つか!(爆)
絵のほうは、平安神宮と思しき朱塗りの神社にただずむ和服姿の美女ふたり。
右サイドに大きな枝垂桜(たぶん)が配されています。美しい日本画です。贅沢なポスターやなぁ。
Japan Travel Bureau(日本交通公社)による観光ポスター。Japan Tourist Bureau(日本旅行協会/東亜旅行社/東亜交通公社)が改称したのは1945年なので、このポスターは戦後の作。
このブログでメインに扱っている期間からはやや外れますが。
作者は堂本印象。
あれ? 生没年が(1891-1975)だ…。
著作権存続orz…
ということで画像が出せなくなりました。
あと16年ほど待つか!(爆)
絵のほうは、平安神宮と思しき朱塗りの神社にただずむ和服姿の美女ふたり。
右サイドに大きな枝垂桜(たぶん)が配されています。美しい日本画です。贅沢なポスターやなぁ。
2009-03-18 Wed 21:53
2009-03-14 Sat 22:01
さて、お孫さんのAさんとお会いしたのは上野の某喫茶店。
奇遇だが、上野は伊藤順三氏が一時期住んでいたという。
Aさんは埼玉県下で書店の副店長をなさっている。
ご祖父のことを検索エンジンで調べている際に、このブログについて知り、コンタクトをとってくださった次第。
Aさんのご自宅には順三氏についての手がかりはあまり残されていない。
2枚の絵、それと「恭親王」との共作の掛軸。そして絵が描かれた扇子。若干の絵の具。その位だという。
※この「恭親王」であるが、Aさんの調査によると愛新覚羅「溥偉」(1880-1936)と推測される。
Wikipedia:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E6%BA%A5%E5%81%89
Aさんは順三氏の生年についてはご存じないとのこと。
ただし大連にて没後、大連三越にて1939年(昭和14)10月に遺作展が開かれていることが、残された写真アルバムから判明した。
その写真アルバムを丹念に見ていくと、同じ年の1月には大連神社で写った写真があった。これにより、没年は(東京美術専門学校=現・東京藝術大学の卒業制作資料どおり)1939年で確定したと言える。
生年については依然として上の資料のもの(=1890年・明治23)しかない。
Aさんの記憶によると、親族が「順三さんは日露戦争に従軍し、所属部隊が壊滅したなかで唯一生き延びて、たまたま取って逃げた銃が自分のものであったから”天皇陛下の銃を守った”との由で表彰された」と言っていたという。
しかし、そうなると14ないし15歳で参戦したことになり、志願兵で17歳~、兵役で20歳~という1889年施行の徴兵令に照らし合わせると矛盾する。
Aさんは「ひょっとすると誰か別の親族の話だったかもしれないな…」と、あまり確証がないご様子。
※管理人コメント
なお、似たようなケースがインターネット上の質問コーナー:
http://qa.asahi.com/qa1764826.html
でなされており、ここでは同世代の徴兵話は「日露戦争」ではなく「シベリア出兵」だったのではないか、との意見が出されている。
また(その1)でも触れたが、1904年の日露戦争開戦時には、順三氏は巽画会の横浜支部に出没していたとする資料もある。
いずれにしても生年については確たる資料を今後とも探したいところ。
Aさんによると、順三氏は上野にあった「小河屋」という呉服店の息子であり、「三」である以上、三男だったのではないか。
妻・(旧姓三浦)静子氏との間に長男「リョウ」氏(正確な漢字名については不明、また小学生時代に亡くなったという)、次男「伊織」氏をもうけた。この伊織氏の一人息子がAさんである。
順三氏の没後、家族は日本に帰国し、池袋に住んだ。Aさんも池袋でお生まれになったということであった。
順三氏の墓は千駄木の宗禅寺にある。
~~~~
…以上が、Aさんから得られた情報であった。
奇遇だが、上野は伊藤順三氏が一時期住んでいたという。
Aさんは埼玉県下で書店の副店長をなさっている。
ご祖父のことを検索エンジンで調べている際に、このブログについて知り、コンタクトをとってくださった次第。
Aさんのご自宅には順三氏についての手がかりはあまり残されていない。
2枚の絵、それと「恭親王」との共作の掛軸。そして絵が描かれた扇子。若干の絵の具。その位だという。
※この「恭親王」であるが、Aさんの調査によると愛新覚羅「溥偉」(1880-1936)と推測される。
Wikipedia:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E6%BA%A5%E5%81%89
Aさんは順三氏の生年についてはご存じないとのこと。
ただし大連にて没後、大連三越にて1939年(昭和14)10月に遺作展が開かれていることが、残された写真アルバムから判明した。
その写真アルバムを丹念に見ていくと、同じ年の1月には大連神社で写った写真があった。これにより、没年は(東京美術専門学校=現・東京藝術大学の卒業制作資料どおり)1939年で確定したと言える。
生年については依然として上の資料のもの(=1890年・明治23)しかない。
Aさんの記憶によると、親族が「順三さんは日露戦争に従軍し、所属部隊が壊滅したなかで唯一生き延びて、たまたま取って逃げた銃が自分のものであったから”天皇陛下の銃を守った”との由で表彰された」と言っていたという。
しかし、そうなると14ないし15歳で参戦したことになり、志願兵で17歳~、兵役で20歳~という1889年施行の徴兵令に照らし合わせると矛盾する。
Aさんは「ひょっとすると誰か別の親族の話だったかもしれないな…」と、あまり確証がないご様子。
※管理人コメント
なお、似たようなケースがインターネット上の質問コーナー:
http://qa.asahi.com/qa1764826.html
でなされており、ここでは同世代の徴兵話は「日露戦争」ではなく「シベリア出兵」だったのではないか、との意見が出されている。
また(その1)でも触れたが、1904年の日露戦争開戦時には、順三氏は巽画会の横浜支部に出没していたとする資料もある。
いずれにしても生年については確たる資料を今後とも探したいところ。
Aさんによると、順三氏は上野にあった「小河屋」という呉服店の息子であり、「三」である以上、三男だったのではないか。
妻・(旧姓三浦)静子氏との間に長男「リョウ」氏(正確な漢字名については不明、また小学生時代に亡くなったという)、次男「伊織」氏をもうけた。この伊織氏の一人息子がAさんである。
順三氏の没後、家族は日本に帰国し、池袋に住んだ。Aさんも池袋でお生まれになったということであった。
順三氏の墓は千駄木の宗禅寺にある。
~~~~
…以上が、Aさんから得られた情報であった。
2009-03-11 Wed 22:55
伊藤順三氏のお孫さんと先日お会いしたのは既報の通り。
その後、公私ともバタバタでおまけに花粉症と黄砂アレルギーですっかり弱り、遅くなってしまいましたが、がんばってまとめてみます(笑)。
会合前、すでに中村氏が調査していた分(※管理人が若干追記)は以下の通り:
■伊藤順三氏は東京藝術大学前身の「東京美術専門学校」を卒業した模様。その卒業制作データによると、生没年は1890(明治23)~1939(昭和14)となっている。1913年(大正2)4月20日付けで卒業制作が登録(受理?)されている。タイトルは「庭園の春」。
東京藝術大学大学美術館 収蔵品データベース: 作品情報;学生制作品-298:庭園の春
http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=2324
■「巽画会」(1904・明治37年~)村田丹陵門下 横浜支部に出入りしていたらしい。
http://www10.ocn.ne.jp/~hoshinog/zuroku/z_67_1/index.html
http://books.google.co.jp/books?id=sXOOQEZdvrYC&pg=PT52&lpg=PT52&dq=%E4%BC%8A%E8%97%A4%E9%A0%86%E4%B8%89&source=bl&ots=3CdZnRINoI&sig=T4IMIL5Oa0l7AgD_UMRiCFMmbHw&hl=ja&ei=utirSYjRH4Sq6gPen4i0Bg&sa=X&oi=book_result&resnum=6&ct=result#PPT52,M1
■1920年(大正9)に普門暁主催の「未来派美術協会」に参加(第1回展に出品)
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/6mrhb001.html
■満鉄会の天野博之氏によると、「・・・伊藤順三は満鉄嘱託の画家で、大正半ばから昭和10年代まで在社した。主として満州風俗を題材にポスターを製作した」(「満鉄会報」第220号、2006年1月1日)。
■神戸新聞1934年(昭和9)3月2日付け「商品を通じて観た満州国人の趣味嗜好」にも伊藤順三氏に関する記述あり(※管理人コメント:中村さんはホント、どうやってこんな記事まで嗅ぎ付けたんだろう・・・世が世なら有名な刑事や学者、もしくはスパイ(笑)になっていたかもしれない・・・)。
それによると、「満州市場紹介展覧会」の際に満州風俗の「斯界の権威であり造詣の深い満鉄嘱託伊藤順三氏」に「満州国人の好む色彩、文字」についてご教示いただいたとのこと。
■写真家の一色達夫らの証言によると、伊藤は「自ら『大陸派』を任じ、日本国内の観光ポスターとは異なるスケールの大きい、平明でわかりやすい”悠久の大陸”を象徴する、ロマンチックな写真主義を目標に掲げていた」という(中井幸一『日本広告表現技術史』玄光社、1992年)。
・・・このあたりの情報を手がかりに、いざお孫さんとお会いしたわけです。
で、その結果どうだったか・・・。ということで「その2」に続きます。
その後、公私ともバタバタでおまけに花粉症と黄砂アレルギーですっかり弱り、遅くなってしまいましたが、がんばってまとめてみます(笑)。
会合前、すでに中村氏が調査していた分(※管理人が若干追記)は以下の通り:
■伊藤順三氏は東京藝術大学前身の「東京美術専門学校」を卒業した模様。その卒業制作データによると、生没年は1890(明治23)~1939(昭和14)となっている。1913年(大正2)4月20日付けで卒業制作が登録(受理?)されている。タイトルは「庭園の春」。
東京藝術大学大学美術館 収蔵品データベース: 作品情報;学生制作品-298:庭園の春
http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=2324
■「巽画会」(1904・明治37年~)村田丹陵門下 横浜支部に出入りしていたらしい。
http://www10.ocn.ne.jp/~hoshinog/zuroku/z_67_1/index.html
http://books.google.co.jp/books?id=sXOOQEZdvrYC&pg=PT52&lpg=PT52&dq=%E4%BC%8A%E8%97%A4%E9%A0%86%E4%B8%89&source=bl&ots=3CdZnRINoI&sig=T4IMIL5Oa0l7AgD_UMRiCFMmbHw&hl=ja&ei=utirSYjRH4Sq6gPen4i0Bg&sa=X&oi=book_result&resnum=6&ct=result#PPT52,M1
■1920年(大正9)に普門暁主催の「未来派美術協会」に参加(第1回展に出品)
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/6mrhb001.html
■満鉄会の天野博之氏によると、「・・・伊藤順三は満鉄嘱託の画家で、大正半ばから昭和10年代まで在社した。主として満州風俗を題材にポスターを製作した」(「満鉄会報」第220号、2006年1月1日)。
■神戸新聞1934年(昭和9)3月2日付け「商品を通じて観た満州国人の趣味嗜好」にも伊藤順三氏に関する記述あり(※管理人コメント:中村さんはホント、どうやってこんな記事まで嗅ぎ付けたんだろう・・・世が世なら有名な刑事や学者、もしくはスパイ(笑)になっていたかもしれない・・・)。
それによると、「満州市場紹介展覧会」の際に満州風俗の「斯界の権威であり造詣の深い満鉄嘱託伊藤順三氏」に「満州国人の好む色彩、文字」についてご教示いただいたとのこと。
■写真家の一色達夫らの証言によると、伊藤は「自ら『大陸派』を任じ、日本国内の観光ポスターとは異なるスケールの大きい、平明でわかりやすい”悠久の大陸”を象徴する、ロマンチックな写真主義を目標に掲げていた」という(中井幸一『日本広告表現技術史』玄光社、1992年)。
・・・このあたりの情報を手がかりに、いざお孫さんとお会いしたわけです。
で、その結果どうだったか・・・。ということで「その2」に続きます。
2009-03-07 Sat 07:24